コーヒープリン体


栃木学習センター所長 井本 英夫 


私が学生だった1970年代の前半,コーヒーブレイクという言葉はまだ使われていませんでしたが,研究室でお茶やインスタントコーヒーを飲みながら,ざっくばらんに話をする時間がよくありました。放送大学ではそのような時間の作りようがないのが残念ですが,この「コーヒーブレイク」のコーナーは,それを補うようなものであればなあ,と思っています。

 実は,私は,コーヒーが苦手です。というのは,コーヒーを飲むと,眠りが浅くなり,翌日,頭がぼんやりするからです。「コーヒーを飲むと眠れなくなる」と言うと,「それは,コーヒーを飲んだと思うから眠れないんだろう」と,よく言われます。しかし,初めから眠れないというのは,相当たくさん飲んだ場合で,実際には,いったん眠った後,目が覚めて,目が覚めた状態と,ごく浅い眠りを繰り返すようなことが多いです。したがって,コーヒーを飲んだという意識から眠れなくなるわけではないのです。

 コーヒーの成分の中で,不眠を引き起こす物質はカフェインとされています。私の体験から言うと,カフェインは,紅茶や日本茶にも,さらには,ウーロン茶やコーラにも相当入っています。お茶では,カフェインが最も多いのは抹茶,緑茶がそれに続き,ウーロン茶あたりまでは,かなり量が多く,少ないのはほうじ茶というところです。ただし,同じ種類のお茶でもカフェインの量はいろいろあるようです。日本茶やウーロン茶の場合,おいしいな,と思うものほど,眠れなくなる傾向が高いように思います。宇大生協食堂のお茶は,眠れなくなったことがなく,私には良いお茶です。もっとも,これは,1回に飲む量が湯のみ1杯だけで少ないせいかもしれません。

webで,カフェインと不眠をキーワードとして検索すると,いろいろな体験談がヒットし,私と同じように,カフェインで眠れなくなる人は少なからずいるようです。私の場合,両親・兄弟ともカフェインで眠れなくなるたちでしたので,それは当然のこととして育ったのですが,世間に出てみると,周りはコーヒーをいくら飲んでも眠れるというような人ばかりで苦労します。アルコールに弱い人がいることは日本ではよく認識されていますが,同じように,カフェインに弱いという体質もあることも知ってもらいたいなあ,と思っています。

 最近,ふと,カフェインはどんな構造だろう,という疑問が浮かびました。私は化学科の出身ですが,有機化学が苦手で,その分野の授業はできる限り避けて卒業しました。特に,カフェインのような物質を扱う天然物有機化学の知識は,ほぼ皆無です。以前は有機化学には関わりたくないという気分があったのですが,研究者という状態ではなくなった今,そんなこだわりもなくなり,webで,カフェインという有機物がどんなものか,調べてみました。そうすると,意外な世界が広がっていました。

 図1(d)に示すように,カフェインの中心となる骨格は1辺を共有する6角形と5角形の環で,どちらの環も2個が窒素で,その他は炭素です。この中心部の構造は,プリン骨格と呼ばれ,これに水素だけが結合した化合物がプリンです(図1(a))。また,プリン骨格をもつ化合物をプリン塩基,または,プリン体と呼ぶようです。プリン体を摂り過ぎると痛風になりやすいといわれていて,最近,ビール風発泡酒の広告で,「プリン体ゼロ」というのをよく見ますが,あのプリン体です。なお,プリン体のプリンはpurine,カスタードプリンのプリンはpuddingで,英語では別の単語です。

 プリン体を酸化していく,つまり,酸素をくっつけていくと,図1(c)となります。(c)の左上の窒素は,酸素と結合する炭素で挟まれています。酸素は電子を引き付けるので,この窒素に結合する水素は陽イオンとなって放出されやすくなります。つまり,(c)は酸としての性質を持つこととなり,尿酸と呼ばれます。プリン体が酸化されると尿酸となるので,プリン体を多量に摂ると体内の尿酸の量が多くなるというのは納得できます。尿酸が増えすぎると,溶けきれなくなった尿酸が結晶となり,これが痛みの原因となるのだそうです。

 カフェインも酸化されたプリン体ですが,尿酸ほどには酸化されておらず,2個の酸素がくっついています。また,窒素に結合する水素がすべてCH3,すなわち,メチル基に置き換わっています。-N-CH3Hはがっちり結合しており,C-N結合も切れにくいので,-N-CH3は,-N-Hより反応性が低い傾向があります。このため,カフェインを壊すためには,他のプリン体とは異なる酵素が必要なようで,この酵素が,私の場合,不足気味なのだろうと思います。Wikipediaによれば,この酵素はキャベツ,ブロッコリー,カリフラワーなどの野菜で増えるそうです。それで,最近は,キャベツやブロッコリーをできるだけ食べるようにしているのですが,よく眠れるようになったという実感はありません。

 カフェインが神経を興奮させ,眠れなくするメカニズムは,webで調べると次のような説が有力なようです。プリン体のひとつにアデニン(図1(b))があります。このアデニンの右下の水素をリボースという糖で置き換えるとアデノシンという物質となります(図2)。生体システムには,このアデノシンがくっつく受容体が何種類かあり,そのひとつに,アデノシンがくっつくと神経の興奮が抑えられる受容体があるそうです。カフェインは,構造的にアデノシンと似ているため,この受容体にくっつき,その結果,アデノシンの受容体への結合がブロックされ,神経が興奮し続ける,というのが,有力なストーリーです。この受容体も,人によって遺伝的に異なり,これもまた,カフェインが好き,カフェインが苦手という違いの原因となっているようです。

 ここでカフェインの話はおしまいですが,上で出てきたアデニンについて,おもしろいことを見つけたので,書き足しておきます。アデニンの化学式は(HCN)5とも書くことができます。HCNは猛毒のシアン化水素,古い言い方では青酸ガスですが,このガスをアンモニア水に溶かして少し加熱するとアデニンができてしまうのだそうです。つまり,アデニンは複雑な化合物であるのに,無機的にも生成するわけです。

 そうすると,最初の生命が地球上,あるいは,宇宙のどこかで誕生したとき,無機的に生成したアデニンが,環境中に存在したかもしれません。もしそうだとすると,初期の生命体は,アデニンをいろいろな用途に使ったはずで,これが現在の生命の仕組みの基礎となったはずです。実際,現在の生命体は,アデニンをいろいろなところで使っています。最も有名なのは,遺伝子の情報を蓄える塩基となっていることで,チミンと対を作っています。DNA中のアデニンは,アデノシン(図2)の形で組み込まれていますが,アデノシンは,生物のエネルギーの運搬体であるATPの構成成分でもあります。ATPは,生物が動くなり,成長するなり,また,消化するなり,光合成するなり,あらゆる代謝の過程で必ず使われる物質です。アデニン・アデノシンは,例えて言えば,世の中に出回る10円玉のようなもので,ありきたりではあるが,不可欠のものです。10円玉は,買い物や自動販売機で使われる主流の利用法だけではなく,ねじ回し代わりにも使われたりしますが,上で述べたアデノシンが神経の興奮を抑える機能をもつというのは,それと同じように,特殊な用途かもしれません。カフェインは,アデノシンのその些細な機能を阻害するわけですが,それだけのことで私は,ずいぶんと苦労させられていることになります。